尻フェチ海鮮丼イーターのメモ

異性のお尻と海鮮丼が好きなキモ男です。普段考えていることを気の向いた時に書いていきます

癖について

きっと大学二年生の十一月頃だっただろう。どこで買ったのかは覚えないが、五千円ほどした木製のシャープペンシルをなくしたことがあった。昔から自身の使用する道具に対してはあるこだわりがあるようで、文具や鞄などもそうだが、洋服などは特に好みにうるさく、と言ってもなにも高いものや洒落たものを好むというわけではない。単に柄やロゴの占める範囲の少ないものが良いというだけだ。洋服にあれこれと書いてあると幼稚に見えてそれが好ましくないというのはもちろんのことであるが、元来私は目立ちたくない性分のようで、人の目を引かない物しか使用したくないらしい。

私の通う大学にI教授とかいう統計を専門とする先生がいるのだが、彼は見るからに知性的である。上側の縁がない,地味な色合いの眼鏡をかけており、それは彼の白髪混じりの毛髪や鯰のような髭と見事に調和している。I教授は六十になるかならないかといった年齢で、学生から見れば十分な年寄りである。年寄りと言って一つ思い出すことがある。私は今年の四月に大学の卒業生たちと会う機会があった。三十手前の若者もいるにはいたが大半は老人で、最高齢は八十ほどの狸であっただろうか。彼らは威張り散らし、学生に対して自分なりの哲学や人生論について語っていたが、着目するべきは彼らの目である。単に使い古しただけの鈍色の瞳の奥には睨め付けるような光はまるでなく、底が見え透いていた。

無学な老人というものはどうにも嫌いである。厳密には自己満足でしかなく、まるで役に立たないような経験則や哲学を嬉嬉として語る老人が嫌いだ。年を重ねるばかりで、まったく年の功はないような人間を尊敬することはできない。私にとってはまさに老狐とでも言えるような年寄り,目の奥に狡猾さや知性を携えた年寄りが好ましい。

私が無学な老人を嫌う時、同様に彼らは私のことを若者らしくないなどと嫌うだろう。らしいもらしくないもあるか。ろくにものを考えず、漫然と生きてきた人間は理屈のない感覚的な言葉で話をするように思う。と言うとまるで私が理屈っぽく、感覚や感情を軽んずるかのように映るかもしれないが、実際はそんなことはなく、むしろ感覚的な質であろう。それゆえに他者の感情の機微には人一倍敏感なつもりである。もしかすると皆様方の中に私の知り合いが居て、「お前は私の感情を蔑ろにしている。何も分かってなどいない」と思う方もあるかもしれないが、それは私が相手の思いに気付いた上で敢えてそうしているのだから、どうぞ存分に気を悪くしてほしい。

先ほどから私が無学がどうのと語っているが、語るに相応しくないことは十分に自覚している。しかし私の話しているのはあくまでも無学な老人についてである。私はそれなりに若く、少なくとも老人ではないのだから、見識のある方が私のような愚者を目にしても若気の至りとしてご容赦願いたい。私が年寄りになった時も変わらず浅慮な愚か者であれば、その時は好きなように罵っていただければ結構だと思う。皆様の延寿萬歳をお祈り申し上げておく。

私のペンの話であるが、先のI教授の統計学の講義を受けた時までは確かに使っていたのである。そこだけははっきりしているのだが、どうもどこでなくしたのか見当がつかない。自分がその日通った道を何度も往復してみたり鞄の中を隅々まで探してみたりしたのだがどうにもならない。数週間経っても見つからずじまいであった。

話を引き伸ばしているせいで読者の皆様も辛抱し難くなってきたと思うから結末を言ってしまうと、私のなくしたシャープペンシルは私の上着の内ポケットにあったというだけのつまらない話となる。ペンをなくした日は、十一月であったが妙に冷え込む日で、時期に合わない緑がかったピーコートを着て出かけたのである。このコートは大学一年生の冬に買ってから一度も着ていなかったために内ポケットがあることを私の方で知らなかったのだ。ほとんど無意識の内に手元にあったシャープペンシル上着の内ポケットに放り込み、それでいて本人は内ポケットの存在を認識していないのだから始末に負えない。

私には昔からちょっとした忘れ癖がある。記憶した物事を忘れてしまうというのではなく、ほとんど意識せずにペンや財布などをどこかに置いて、そのまま置いた場所を忘れてしまうというのだ。その癖は病的ではなく、こちらが自身の忘れ癖のことを忘れてしまった頃に顔を出してくるくらいのものである。

物をどこかに置くということで思い出される話がもう一つあり、いつからそうなったのかは私でさえ分からないのだが、買い物をした際の釣り銭をポケットに入れ、帰宅した後にそれらを洋服箪笥の上、机の隅なんかにポンと置いてしまうという癖が私にはあるらしい。釣り銭と言っても一円玉と五円玉と十円玉ばかりである。それより高価な硬貨となると、わざわざ財布にしまっているらしい。硬貨も大抵は前述のような分かりやすい所に置いてあるのだが、本当に困るのは私が酔って帰った後のことである。私は酒に強くはないが、酔った際に世間の人々のようには酩酊することができないのである。人前では自己を制限してしまい、意識も思考もはっきりするのだ。恐らく、顔が赤くなりさえしなければ酔っているか否かは他人から見て見分けがつかないだろうと自分では思っている。しかし、仲間と別れて自分一人になって遠慮を捨て去れば途端に酔いが回ってしまう。そんな時に釣り銭を置く場所というのは自分でさえ予想のつかないことが多く、ひどい例を挙げると本棚にある内田百閒の『第一阿房列車』の背表紙の裏や空の炊飯器の中、靴箱の中で眠っている革靴のパッドの裏などに入っていたこともあった。癖というのは厄介なもので、それに酒が組み合わさればこれ以上ないほどである。癖と言っても手癖などは私にはなく、したがって他人に迷惑をかける手合いの癖は持たぬのだからまあ良いかと思う他あるまい。

半年ほど前に大掃除をして、部屋のあちこちから出てきた小銭を数えることがあった。硬貨を並べていくと全部で九百一円にもなった。九百一と言えば、その年に菅原道真公が大宰府に左遷されたとか何とか、高校生の頃に習ったのを思い出す。いくらであっても金銭を手にするのは本来的には気分の良いことのはずなのだが、その時は何とも後味の悪い感じがしたものである。